研究紹介経営学分野Management

王 英燕

慶應義塾大学商学部教授

王 英燕

組織行動論、組織論、国際人的資源管理

京都大学助教、広島市立大学講師・准教授、京都大学准教授を経て、2019年から現職。文学修士(スタンフォード大学)、経済学博士(京都大学)。「理念改定におけるアイデンティティ・ワークの研究」(『日本経営学会誌』2023),「態度形成の規定要因」(『組織科学』2018)、『組織コミットメント再考』(文眞堂, 2017年)、『経営理念の浸透』(共著,有斐閣, 2012年)など、著作・論文多数。

組織行動と理念型経営の探究

慶應義塾大学商学部教授 王英燕

(1)研究の根底にある問題意識

 商学研究科の王です。研究分野は経営学です。具体的には、組織行動論、組織論と国際人的資源管理の視点から組織コミットメント、理念型経営、アイデンティティ・ワークのマネジメント、リーダーシップの継承、海外日系企業の管理など一連のテーマについて実証研究を行っています。これらの研究の根底にある問題意識は「個人と組織のアイデンティティを実現する経営」が何かということを解き明かすことです。なぜこの問題意識が重要かというと、少なくとも三点ほど理由が挙げられます。
 まず、現代社会では、個性と多様性を尊重する価値観が浸透してきていますが、その中で自分とは何か、自分らしさとは何か、ということへの追求に対する関心が高まっています。自分が他者とは異なる個人として持っているアイデンティティ以外に、社会集団の一員として自分を捉える社会的アイデンティティも持っていますので、他者との関係性を重視する関係的アイデンティティも含めて考える必要があります。経営はこのような様々な自己アイデンティティの実現を提供する場としての大きな役割を果たしています。
 二点目は、経営環境の激しい変化について良く指摘されますが、これに対応するためには、企業自身も積極的に自分が何者であるかという自己定義を明確にして、必要に応じてアイデンティティの軌道修正をしながら経営の軸足を確立しなければなりません。実は日本企業の場合、自らのアイデンティティとは何かという問いに対して、従来から理念を明示することで示されてきたという特徴があります。組織アイデンティティを明確にする経営の実現は、リスクが高まる厳しい経営環境を乗り越えるためにも重要性が高まっています。
 三点目は、アイデンティティという概念は性質上、個人と組織の双方にとって大変重要であるため、両者の調和を目指す経営とは何かということを理解するために役に立ちます。従業員以外に、供給業者、取引先関係者、顧客、株主、地域住民等様々な利害関係者を含めて、企業組織との調和を目指す経営の実践は、高い付加価値や持続的な成長を作り出す社会に達成することへの貢献が期待できます。

(2)研究のこれまでの発展プロセス

 「個人と組織のアイデンティティを実現する経営」を具体的に解明する上で、最初に興味を持ったのは組織コミットメントの研究です。一般的に、これは組織に対する一体感や忠誠心、組織の価値観の受入れという意味ですが、この概念を研究することによって組織的文脈の中で個人がどのように自己アイデンティティを実現するかを模索してきました。例えば、従業員の勤続年数が長いことは日本企業の特徴の一つと言われています。ここには同じ勤務先で安定して自己を実現したいという存続的コミットメントが反映されています。同一企業に所属しながら自分らしさを捉えようとする、日本独特の自己アイデンティティ実現への追求が根底にあります。更に、長年形成された複雑な人間関係が土台となり、他者との関係によって自分を捉える関係的アイデンティティの追求にも現れています。しかし、高い定着行動との裏腹に、企業との感情的繋がりを表す情緒的コミットメントは高くないという調査結果があり、企業の一員としての社会的アイデンティティの実現に対して、ポジティブな感情を伴う価値判断が不十分という特徴が見えてきました。
 日本、アメリカ、中国の企業を対象とした組織コミットメントの規定要因に関する研究を進める中で、個人と組織双方のアイデンティティの実現は、相互に深く関連しあうことに気づきました。これが経営理念の浸透というテーマの研究を通じて、個人と組織アイデンティティの融合を探究しようとしたきっかけです。企業には様々な意味のアイデンティティが社会的構築されていますが、理念は公式的に提示されたアイデンティティの中核部分だと言えます。また、理念の中には普遍的な価値観とその進化が色濃く反映されているため、個人も理念によって自分を部分的に定義することができれば、組織アイデンティティとの接近も可能です。理念の浸透を具体的に「可視化」するために、日本企業での実証研究を通じて測定指標を試験的に開発しました。中には、内容の認知、感情的共感と行動に落しこむことの三つの次元が含まれます。しかし、実証研究の結果、行動に落しこむことの難しさが明らかになり、それを解決するために理念型経営が機能するメカニズムの分析にも注目しています。
 近年は理念型経営の実態解明とアイデンティティ・ワーク(identity work, IW)の研究に力を入れています。一貫性と識別性を生み出すために、企業自身に関する信念と理解を公開し、維持と修正を図る一連の活動をどのように行っているのか、先進的な取組に関する事例研究を進めてきました。分析の結果、「アイデンティティ・ギャップの発見」、「アイデンティティ中核の吟味」と「シェアード・アイデンティティの構築」という三つのIWが明らかになりました。最近は、理念型経営が機能するために必要な、表明(statement)・体現(embodiment)・習得(learning)というSELサイクル構造の理論提唱とともに、独自の測定項目開発にも着手しています。

(3)他分野への応用可能性

 私の研究土台の一つである組織行動論は、もともと学際的なアプローチを基盤として発展してきたものです。組織の一員としての個人、複数の個人によって形成される小集団、または組織全体に関わる行動メカニズムを理解するために、心理学、社会心理学、社会学、政治科学、人類学、経済学等の知見を活かしています。研究成果は他の様々な関連領域にも還元してもらえればと考えています。例えば、従業員のアイデンティティ構築の仕組みを心理学と教育学の分野に応用するのであれば、人格形成のダイナミズムの探求や効果的な教育の在り方の追求が可能です。また、企業組織のアイデンティティ・ワークを社会現象として扱い、その実態の解明や仕組みを理解する社会学に生かすことも考えられます。更に、日米中における企業慣行の違いなどは比較文化論の研究に寄与することも期待できます。

(4)研究から得られた知見を企業活動や社会全体に応用・実装する可能性

 世界的に、企業の存在意義と目的を明確に打ち出したパーパス経営への関心が高まっていますが、実は日本では従来から理念を大切にする理念型経営が存在し、これらの企業の多くは企業の存在意義と社会的意義を重視した経営を実践してきました。しかし、その実態はまだ十分に研究されていないため、世界的な認知度はあまり高くありません。
 「個人と組織のアイデンティティを実現する経営」の研究は、まさに日本の理念型経営の実態とメカニズムを解明する内容です。研究で開発した理念型経営、及び理念浸透の測定指標を企業で活用すれば課題と問題点の把握に役に立ちます。また、研究で示された先進的なIWマネジメント法を積極的に応用すれば、企業の存在意義と社会的意義を明確化する経営の実践を具現化することにも貢献します。更に、知られざる日本企業の知見を新時代の日本型経営として世界に発信すれば、日本企業が再び海外から注目されるきっかけになることを願っています。